「クリスさん。どうしたんですか?」
 穏やかに、まるでなにごともなかったかのように私は話しかける。何度目かの呼びかけ
で、ようやくクリスさんは振り返った。
「だって……リセ……」
 私は彼に近づき、そっと唇を重ねた。
「ここには、私の望んだ全てがあります」

『もう二度と、まともには歌えないでしょう』

「あなたがいて、私がいる。この部屋は、私達の家なんですよ?」
「……違う、僕が言いたいのはそういうことじゃないんだ」

『ゆっくりと、段階を追って、時間をかけて治すことができたのなら、あるいは……しかし』

「同じです。ここに足りないものなんて、なにもないんです」
「でも君は……歌を……」

『怪我を負ってから、喉をずいぶん酷使しましたね?』

「ごめん……リセ……」
「クリスさん」
 うつむくように――いや、私から目をそらすようにしていたクリスさんの顔を両手で
包み込む。そして、向き合って話を続けた。 「謝らないでください。お願いですから。私は、今こんなに幸せなんですよ」 「……リセルシア」  目が合う。クリスさんの視線が私にはっきりと向けられた。でも、私が言葉を紡げ ば紡ぐほど、それがクリスさんを苦しめているのはわかる。このかすれた声が発せら れるたびに、思い出さずにはいられないんだろう。  私が歌を失い、唯一後悔をしているのは、この気持ちを正確に伝える術がないこと だけだった。クリスさんの気持ちは、あれほどはっきりと私に伝わるのに。 「そうだ、クリスさん……フォルテールを弾いてください」 『それから。これ以上声を張り上げて歌うと……声さえも失うことになります。気を つけてください』 「……歌うの?」  まるで、自分が声を失ってしまうかのような、怯える声だった。きっと昔は、私も あんな顔をしていたんだろう。そしてクリスさんと出会うことができなければ、今で もそうだったに違いない。 「違います。ただ、聴きたいんです」  あなたの声が。あなたの愛情が。  それだけで、私は失ったものを取り戻せる。失った以上のなにかを、手に入れられ る。 「……わかった」  短くそう答え、クリスさんはフォルテールのケースに手を掛けた。初めて今の病院 に行ったときに、これからは絶対に歌ってはいけないと言われ、それからずっとクリ スさんはフォルテールに触れていなかった。一緒に歌えるようになってから、と笑っ て言っていたっけ。  薄く埃のかぶったケースを慎重に開け、クリスさんは用意を始める。  そして、用意は終わったというのに、彼はその前に座ったまま、しばらく動けない でいた。 「……どうして、僕はあの時」 「言わないでください、それ以上。歌いたがったのは私ですから」 「それより前もそうだった。君を行かせるべきじゃなかった。あの男――」 「クリスさん」 「……」  私は、あれから何度も何度も説明をした。お父様を責めないでくださいということを。 「お父様は、かわいそうな人なんです」 「だからって!」 「……ええ。だからといって、全てが許されるわけではありません。でも、それでも 許してあげて欲しいんです」  初めて私がそう言った時、クリスさんはまるで別人を見るような目で私を見た。
あれだけのことがあって、それでもまだそんなことが言えるのか、と。  でも私は、お父様の涙を見た。今まで、決して私には見せたことのない、弱々しい とさえといえる顔。あれは、真実だった。そして、あの時逃げなかったのも、私の意志で間
違いなかった。 「あの人は、私の本当のお父様なんですから」  クリスさんは、それ以上を言葉にはせず、フォルテールを弾き始める。今まで聞いた、ど の音よりも、それは悲しい音色だった。多分、初めて彼の音を聞いた時に感じたのと同じ だけ、私は心を動かされる。 「……クリスさん」  それでも、私の言葉を無視して音楽は続く。それはもう、音楽とは言えなかったかもしれ ない。音は、まるで叫び声のように私の耳にこだまし、思わず耳を塞ぎたくなった。
でも、そうすることはできない。 「クリスさん、聞いて」 「……」  ついに私は、その音に負けて、ひざまずいてしまいそうになる。  最後の最後に、私はひとつのことを試した。  クリスさんの片方の腕を取る。そして、欠けてしまった曲の一部を、私がもう片方の手で 補った。曲は、途切れることなく続いていく。クリスさんの右手と私の左手が、まるで一対 の腕のように、それぞれを補い、完全に補完していった。  全てを弾き終えて、それからクリスさんは私の顔を見た。そして確信する。  ――伝わったのだ。私の言葉が。私の想いが。 「……リセ」 「はい」 「ごめん」  さっきとは、少し違う謝罪の言葉。それ以上の言葉は必要ない。私たちはもう、わかりす ぎるほど分かり合えるようになったから。 「お父様を、許してあげてください」  私の本当のお父様だから、とは言わない。もし違ったとしても、今なら胸を張って言える。 お父様のことを愛していると。ただ、愛し方を知らない不器用なあの人のことを。 「……君が、そう言うのなら」  しばらくして、クリスさんはそう言ってくれた。決して笑顔ではなかったけど、あきらめ たような、疲れたような顔で。私は頷いて、もう一度、フォルテールの鍵盤に手をかけた。

 

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